ひとりでてくてくと

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3年かけた西穂~奥穂縦走への道

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2015年10月に初めて西穂独標に登り、景色の雄大さや岩歩きの楽しさをから、山登りを40歳前に始めた。

当初は特に目標もなかったが、様々な山を登っているうちに西穂高岳からジャンダルムを経て、奥穂高岳の縦走を目指すようになった。
この歳から、山登りなど始めたものだから、周囲には山を知る友人など当然おらず、そのため、本や映像、インターネットで情報を集めざるを得なかった。そして、3年間の山登りの集大成が今回の縦走である。西穂から奥穂への縦走は語りつくされた感はあるが、それでも何かの参考のためにと思い、記録を記しておこうと思った。私の山行は、低山を除き、すべて単独である。

2015年10月から2016年12月の山登り1年目。東京在住の私は、関東近辺の山に絞って日帰りで行ける山を中心に登った。雲取山両神山丹沢山筑波山、甲武信ケ岳、北岳などに登り、特に丹沢山系の塔ノ岳はお気に入りの山の一つとなった。また、装備には気を使った。この年齢から始めるとなると、重い荷物を担ぐと逆にリスクが高まり、また、楽しく登れないのではと考えた。そこで、トレイルランの思想を取り入れ、軽量化に務めた。その方が自分にも向いていると感じたからだ。靴も登山靴よりも、トレイルラン用の靴を主に使った。1年目の目標が富士山と槍ヶ岳、そして剱岳だった。富士山は通常の吉田ルートで登り、槍ヶ岳も基本コースの上高地から登った。槍ヶ岳では、初の山小屋を使用した1泊2日の山行となった。さすがに槍の穂先は緊張したが特に問題なく登れた。

そして、深田久弥日本百名山』の一節に惹かれて登った剱岳。「明治四十年七月十三日、陸地測量部の一行によって、遂にその頂上が踏まれた。ところが、人跡未踏と思われていたその絶頂に初めて立ったのは彼等ではなかった。彼等より以前にすでに登った者があった。測量部一行は頂上で槍の穂と錫杖の頭を発見したのである」。ここでは、劔沢小屋で一泊。だが、剱岳では、下山途中、足を引っかけ、岩に膝をぶつけ数針縫う怪我を負った。膝を血だらけにしながら、カニの横バイを超え、下山した。

冬は、塔ノ岳や赤城山、伊豆が岳などの低山を登った。2016年の年末には、単独でも危険の少ないそこそこの高山はないかと探し、メジャーな八ヶ岳の赤岳に登った。冬山のリスクは十分に様々なところで書かれていたので、慎重を期した。アイゼンワークやピッケルの使い方なども書籍やインターネットの動画などで学んだ。

2年目の2017年。塔ノ岳、雲取山、富士山、剱岳などに再び登り、3大キレットの一つともされる不帰ノ嶮を経由して唐松岳などにも登った。この頃から、穂高連峰を目標に定め始めた。年末には再び、冬の八ヶ岳・赤岳を登った。同じ山に登るのは、ある登山雑誌などで、同じ山に何度も登ることの重要性が語られていて、それを踏襲した。

3年目。テント泊もスタートさせ、雲取山で初めてテントを張った。そのほか、瑞牆山金峰山をテント泊で登り、初夏には上高地から涸沢でテント泊し、北穂、涸沢岳、奥穂、前穂を経て上高地へと縦走した。徐々に西穂・奥穂縦走が現実味を帯びてきた。その前段階として、新穂高温泉から南岳に向かい、大キレットを通り、上高地へと縦走した。これもテント泊で1泊2日の山行だった。

いよいよ、2018年10月中旬。初日に上高地から西穂高山荘、翌日に西穂高山荘から独標、西穂高岳を経て、ジャンダルム、奥穂高上高地へと下りる予定を立てた。一泊二日の予定で、奥穂に午後に到着するようであれば、穂高岳山荘に泊まろうと予備日を一日設定した。

この縦走をするにあたり、山と渓谷社のDVD『アドバンス山岳ガイド 西穂・奥穂縦走』も参考にし、スマホに動画を落とし込みいつでも見られるようにしておいた。一般登山道でもかなり高度感があり事故も起きているので、装備も軽量化を重視した。

初日。東京・新宿から高速バスで「上高地ゆうゆうきっぷ」(新宿~上高地 往復8千円)を使用し、上高地へと向かった。バスに乗っている間、何度も天気予報をチェックした。翌日も快晴だったが、午後に雪が降るという予報もあり逡巡した。上高地に到着したのは正午前。ごった返す観光客の間を縫って、西穂登山口に向かい、1時間半かけて西穂山荘へ到着。西穂山荘では同じコースを辿る人もいて食事中に情報交換などもした。夕食は、魚のフライに肉団子に付け合わせの野菜、豚汁、ごはんだった。山荘の主は気象予報士の資格を持っているらしく、あすの天気を細かく食事の最中に発表してくれた。晴れるとのことで、午後に若干の雪の不安があるようだが積もるほどではないので、予定通り、出発を決めた。早朝出発なので、お弁当をお願いし、その日は、6畳くらいの部屋に7人で寝た。

翌朝4時。起床して準備をし、5時前に西穂山荘を出発した。最も心配だったのが、およそ12時間の山行なので便意をもよおさないかどうかだった。トイレに何度も言ったが小便以外は出なかった。まだ、星が瞬き真っ暗の中、ヘッドライトを装備して独標へと向かう。独標へと到着するころには太陽が上りはじめ、あたりには薄明かりが広がっていた。そのまま、ピラミッドピークを経て西穂高岳に到着。

ここからが本番だ。起伏のある岩山を登ったり下ったりし、ガれた岩場を歩き、浮石に注意し進んだ。何度も地図を出し、自分のいる場所を確認し、逆層スラブ、間ノ岳、天狗岩と進んでいく。これまで、3年間で歩いてきた、槍ヶ岳剱岳、不帰ノ嶮、穂高連峰の応用編のような道が続く。いよいよジャンダルム直下に到着。下調べした通り、頂上方面と奥穂方面に分かれているので、飛騨側にぐるりと回って頂上へとたどり着いた。「ジャンダルムの天使」と呼ばれる頂上を示すシンボルを前に写真を撮り、もとの道を下り、奥穂方面と向かった。この後、一番の懸念だった、ロバの耳直下の下りだ。鎖もあるが、慎重に下った。だが、思ったほど長くなく、何とか下り終え、馬ノ背へとたどり着いた。

ここまでに出会った人は、欧米人の30代ぐらいの男女と、単独の中年女性、30代ぐらいの男性ぐらいなものだった。馬ノ背は実際に来てみると思ったほど足場は狭くなく、テンポよく登った。奥穂高岳の頂上はすぐ目の前。多くの登山客が目に映った。馬ノ背を終え、奥穂に向かうと、2人組の登山客に話しかけられた。「あそこ(馬ノ瀬)まで行ったんですが、怖くて戻ってきたんです。大丈夫でしたか?」「大キレット行ったことがないのですが、行けますかね?」。少し、悩んで、「高度感に慣れていれば行けると思いますが…」と曖昧に答えた。奥穂高岳頂上には、午前11時頃に到着。西穂山荘のお弁当を食べ、そのまま上高地へと降りた。

西穂~奥穂の縦走は、これまで登ってきた山々の応用問題のような山行だった。緊張感を持ちつつ、進退窮まる箇所も特になく無事に終えた。だが、奥穂から西穂を目指した場合、果たして「馬ノ背」を自分も下りで行くことができるのだろうか。まだまだ課題は残っている。それでも、登山を始めたきっかけの西穂高・独標のその先に進めたのは本当にうれしかった。

翌週、同じコースを辿った3人組のパーティーの1人が奥穂高で凍死して亡くなったというニュースが流れた。

山では人は死ぬ。「正当に恐がる」。その思いを新たに、次の山行をどこにしようか地図を開く。